「何かを信仰することは良いことだ」と考える人は多くいます。そして「何を信じるかは大切ではなく、とにかく信仰を持つことが大切なのだ」と言うのです。

しかし、これは間違った考えです。現実の問題で、誰がそのように考えるでしょうか。例えば「誰と結婚するかは大切ではない、とにかく結婚することが大切なのだ」と言ったり、「どんな家を買うかは大切ではない、家を買うことが大切なのだ」と言う人はいないはずです。


 それなのに、信仰の話になると「何を信じるかではなく、信仰することが大切なのだ」と考えるのです。それは多くの方が、信仰を現実の問題ではなく、辛い現実を乗り切るための気休め、疲れた心を癒すための心地よい教え、と考えているからです。まさに宗教とは、その程度のものです。

しかし聖書の教えは、それとは全く異なります。

キリスト信仰はただの気休めではなく、現実の問題であり、真理なのです。

気休めの宗教は、あなたを死後の地獄から救うことはできません。しかし、真理はあなたを救い、本当の喜び、根拠のある希望を与えることができます。

宗教とは何でしょうか。それは、人間が神を求めて作り出したものです。

全ての人は、心のどこかで神様の存在に気が付いています。けれども人間は、罪のゆえに本物の神様を求めようとしません。それで自分の都合に合わせて、色々と神をイメージして作り出したのです。宗教には「神」とか「天国」というイメージはあっても、そこに実体や根拠はありません。 

一方、真理とは、神様が定めたものであり、神様が人に示されるものです。

宗教が「人から神への探求」であるなら、真理は「神から人への啓示」です。

真の神様の定めですから、誰が信じても信じなくても、真理は変わりません。場所が変わっても、時代が変わっても、真理は変わりません。なぜなら神様は、永遠に変わることのない方だからです。そして神様は、その真理を「聖書」の中に啓示してくださいました。

 聖書は「はじめに神が天と地を創造された」(創世記1:1)
という言葉から始まっています。真の神様がおられ、その方が全宇宙を造られました。私たち人間も神様によって造られた、神様の作品です。神様は人間一人ひとりを愛しておられます。
 ところが人間は、神様に逆らって罪を犯しています。

聖書に「すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず」(ローマ3:23)と書かれています。

また人間について「彼らの目の前には、神に対する恐れがない」(ローマ3:18)とも、「彼らは欲望を神とし」(ピリピ3:19)とも書かれています。

今も多くの人が、人間を造られた神様を認めないで、神様を無視して生きています。そして神様中心ではなく、自分中心の、欲望に仕える人生を生きています。それが罪なのです。


 神様はきよく、正しい方です。神様は人間の罪に対して怒っておられます。

聖書に「人々のあらゆる不敬虔と不義に対して、神の怒りが天から啓示されている。」(ローマ1:18)また、「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」(ヘブル9:27)という、大変厳粛な言葉があります。

人間は死んだ後、消えない火が燃える地獄に投げ込まれ、神様から永遠の裁きを受けなければなりません。そこで神様は、この裁きからの救いを用意してくださいました。

  神の真理の書である聖書は、救い主の存在を告げています。

聖書は、旧約聖書新約聖書に分けることができます。旧約聖書はイエス・キリストが生まれる前に書かれ、新約聖書はイエス・キリストが生まれた後に書かれました。

旧約聖書には、やがてお生まれになる救い主について300ヵ所以上の預言があります。そして驚くべきことに、その預言が全てイエス・キリストに成就しました。

新約聖書には、預言の通りお生まれになったイエス・キリストがどのような方で、どのような働きをなさったかが書かれています。


 神様は今から約2000年前、ひとり子のイエス・キリストをこの世に遣わしてくださいました。

そして私たち人間の罪のために、キリストを十字架でお裁きになりました。イエス・キリストはあなたの身代わりに十字架で死なれました。しかし死後3日目の日曜日に、死に勝利して復活されました。キリストは天に帰り、今も生きておられます。

誰でも神様の前で自分の罪を認め、イエス・キリストを信じるなら、神様から罪の赦しと永遠のいのちをいただき、いつ死がやって来ても天国に行くことができます。


 神様はあなたを愛しておられます。どうかイエス・キリストを信じて救いを得てください。そして本当の喜びと確かな希望を持って生きる方になってください。

新約聖書 ヨハネの福音書3章16節